デンソーエレクトロニクス 75年史
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75th Anniversary Memorial Bookフラッシャ導入時のメンバー最初は9名が日本電装の実習に行った(1960年頃)丸型フラッシャ職場(1968年頃) 当時のフラッシャは通称ペコ板式と呼ばれるタイプであったが、後に当社の重役になる若松氏が、英国の雑誌に掲載されていたコンデンサーを見たのがきっかけで、日本で初めてコンデンサー式フラッシャを製品化し、これを当社が生産するようになった。またその頃、米国カリフォルニアのハイウェイパトロール規制でハザードの装着義務が決定。この影響が我が国にもおよび、1台の車にフラッシャが2個装着されるようになった。加えて自動車生産台数も増加していたため、フラッシャ生産量は飛躍的に伸長していった。 フラッシャの次に生産することになったのがリレー(ホーンリレー)である。当時、日本電装では初めてリレーを製造することになったが、新規業務が相次ぎ手に負えない状況であった。そのためフラッシャの生産実績がある当社に生産が委託された。それ以後、各種リレーが誕生し、リレーの生産は急速に拡大していった。リレーに加えホーンなども委託されたが、後にホーンの生産は鷲津製作所に移管されている。10フラッシャ・リレーの生産で、業容を拡大 電気自動車の板金業務を担う会社として設立された当社も、更なる成長のために、新たな事業の模索を開始した。そこで1958年に当時の森元次郎社長が日本電装と交渉を行い、フラッシャの組み付け業務を獲得するに至った。当初は仕事の内容が皆目わからなかったので社員数名が日本電装に赴き仕事を覚えてくることにしたが、その実習に行くための責任者がおらず、新入社員を採用し班長として参加させるような状況であった。

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