第1章 1950-1999 ニッポンボデーからアンデンへ技術本館の新築工事が始まる(1984年5月)また、リレー製品の増産が予定される中、電子製品も将来的に伸びてくるであろうと予測し、これらに対応すべく150工場の建設も進められた。当時の鈴木宏社長は後に、この2つの建設によって、外観的にはひとまず会社らしくなったと感慨を込めて述べている。業団地「メカトロピア岡崎」であった。そしてメカトロピア岡崎に進出する企業の第1号として、1988年8月30日に岡崎市と公害防止・環境保全に関する協定を結び、10月より建設に着手。翌年5月に竣工式を終えると、電子製品の主力工場として生産をスタートさせた。技術本館に建立されたデミング賞の記念碑(1984年10月)建設が進み、姿を見せ始めた岡崎工場(1989年1月)15技術本館が完成。企業体質の転換をめざす 当時、当社は製造主体の企業であり、その企業体質を転換し“工場から会社へ”と脱皮することが長年にわたる課題であった。そのために、1983年には技術・開発を強化する会社方針が打ち出された。この方針を受け開発・設計・生産技術の拠点として「技術本館」の建設が決定され1984年12月に完成した。岡崎市に環境配慮型の新工場を建設 1985年、当社の売り上げは初めて100億円を突破し、従業員数も1000名を超す企業となった。その後は、内需拡大策に支えられ自動車の国内販売が好調に推移していたことと、日本電装からの電子製品の移管もあり、200億円に迫る勢いで売り上げが増大していった。 1988年、当時の山中正社長は将来のさらなる発展をめざし、「新工場の用地取得・建設準備を開始する」と表明。これを受けて4月に建設準備会が発足し、会社のイメージアップを図るべく先進的かつ、環境に配慮した工場の建設計画がまとめられた。建設用地として候補に挙がったのが、愛知県のテクノエリア構想にあわせて開発が予定されていた岡崎市花園地区の工
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